「北海道の自然」と「私」の関わり

私は、s16年山梨県に生まれ、地元高校を卒業後京都の大学で「森林生態学」を学び、S39年北海道庁に就職しました。道庁では約35年間、主に森林・林業・自然保護行政に関わり、退職後も10年間同様な業務に関わりました。現在、これらを通じて以下のように考えています。

私の北海道林業との関わり -1    2017.1.5

1 私は、昭和16年、山梨県の南アルプスの麓の一農村に生まれた。甲府盆地を取り巻く山々は2~3千mを越え、そこから流れ下る河川はいずれも扇状地を作り特異な景観をみせている。実家のすぐ裏山は櫛形山(2052m)といい、中腹には奇妙な形をした天然のカラマツが見られ、山頂までシラビソやコメツガなどにカンバ等の混じる原生林が続いていた。地形的には扇の要ともいえる扇頂部に当たり、海抜高は450mで集落は約100戸で、1km程下流には甲府盆地(350m)が広がり、その間は、河川の運んだ砂礫が扇状に積み重なり、盆地の反対側には写真のように、富士山(3776m)が一際高く聳えていた。かっての桑畑は今では桃畑とかわり、花の時期5月には一面ピンク色に染まり、桃源郷として新名所となっている。

2 実家は林業で田畑は農地改革で5反歩位しか持てず、子供の頃から父について杉や檜、赤松、唐松を植えたりしていた。昭和31年には、「もはや戦後でない」といわれるように日本経済も復興し、右肩上がりの生長が始まり、それに伴い木材需要は拡大し、ついには逼迫気味になり、当時の農林大臣は国有林に500万m3(?)の増伐を要請していたが、林野庁がこれに応ぜず木材価格の独歩高が続き、今では信じられないが「木材は物価上昇の元凶」と新聞は報じていた。未だ外材が入ってこず、我が家もその恩恵に預かり兄弟4人とも高等教育を受けることが出来た。   高校を卒業した35年、現天皇のご成婚があり、人々は普及し始めたテレビの前に釘付けされ、国を挙げて華やいでた。お祝いとして、全国の官庁や公園など公共地にメタセコイヤが記念植栽された。しかし、私は受験に失敗し1年間実家で父の仕事を手伝いながら過ごした。翌年幸運にも大学に受かり、農学部林学科を選んだ。39年4月、卒業と同時に北海道庁に採用が決まり、机と布団をチッキで送り、一人はるばる津軽の海を渡り北海道人となった。       (写真は山梨の実家山林で中学時代植栽 林齢65年生のスギ、ヒノキで鬱蒼としている)

3 職場は北海道林務部道有林課で、業務は道有林野の経営計画の策定であった。道有林は全国一で面積62万Haと北海道の全森林面積の約1割を占め、独立採算性で18経営区から成り、約1200人の職員を抱えていた。各経営区は、全道各地に配置された18林務署が管理し、私の係の仕事は、この18の経営区を順番に廻り、5年に1度計画を改訂することであった。それゆえ1年に3~4経営区を4人1チームの調査員がジープ1台を駆使して3月~9月の7か月間約170日をかけ森林調査をし、それを基に資源を把握し、蓄積、成長量、伐採量などを算定し、今後10年間の事業計画や収支予想を立てることであった。

4 外業は天然林の資源調査が主体で、あらかじめ航空写真を判読し母集団分けを行い,
2重抽出のサンプリング方法で決めた林相別の調査点(100プロット)を図面上に落とし、これを1点ごと現地に調査地を設定(50m方形の区画0.25Ha)し、その区画内の全林毎木、伐採予選、植生、土壌調査などを行い、施業方法を検討し、併せて5年分の事業予定地の踏査を行うことであった。これは道なき道を踏み分けながら現場にたどり着き、調査を行うもので汗みどろの苦難の作業であった。人工林については単純な標準地法により、林齢毎の蓄積、成長量を把握し、樹種毎の収穫表の調整が主な仕事であった、

5 その当時は、戦後の復興が軌道に乗り始め、35年の池田総理の所得倍増計画は確実に成果を上げ、景気は右肩上がりに拡大し、木材需要が急激に増大していた。
道有林でも国に先んじて、昭和32年に第1次林力増強計画(1次林強案)を打ち出し、社会的な木材需要の増大に対応することにした。しかし、1面では、29年の洞爺丸台風による未曾有の大風倒木処理を契機として肥大化した木材業界への原料供給の維持対策でもあった。この計画は拡大造林、即ち、ある面積の森林を伐採する場合、1本残らず立木を切り倒して裸にして、跡地に苗畑で育てたトドマツやカラマツ苗を植える方法で皆伐一斉造林作業といい、この皆伐作業の総面積を従来の12万Haから20万Haに変更し、人工林率を施業地の26%から38%に引き上げた。これは全森林の約4割を天然林から人工林に変更する革命的な計画であった。 更に、これに続く2次林強案(S37年~)では、高度経済成長を支えるため前計画を更に強化し、皆伐一斉造林対象面積を25万haとし、全森林の5割を人工林とすることにした。具体的には、最大斜度35度未満、海抜高600m(道央部800m)以下の森林を皆伐し新たに苗木を植えて造林地とするもので、それにより年間の木材伐採量は従来(s26-28)の年70万立方から130万立方と約2倍に増大した。しかし、このような拡大基調の中でも37年には経営収支の悪化が生じてきた。人件費の高騰、燃料革命などにより、伐採した木材に需要がなかったり、予定の価格で販売できない等により、経営改善計画の立案が余儀なくされていた。
丁度その様な時に、私は道有林の経営計画の編成に従事することになった。でも、その時は、そのような経営状況にあるとは気がつかなかった。

6 入庁した39年度は滝川経営区、次年は留萌、その次は池田、そして北見、旭川、浦河の順に年々場所とメンバーを換えながら「計画の編成」のため、ただ黙々と森林内を歩き廻り、資料を集め、10月になるとこれらを持って札幌(道庁)に帰り、その取り纏めに追われた生活であった。山での生活は飯場や作業所に泊まり込み、プライバシーなど無縁の団体生活だが楽しい毎日であった。
外業は堅雪の3月に始まり、スキーを履いての境界標、林班界標の補修と天然林の踏査、資源把握のプロット調査であった。これを2か月で終わらせ、雪が解けると野生の花々を蹴散らしてただひたすら歩いて人工林調査、それらの集計、検討し、夏から初雪が来るまでの間に今後5カ年の伐採量や造林量、林道開設量などの事業計画量の積み上げを行った。このようなシステムだから4人のメンバーは兄弟以上の付き合いであった。現地調査で驚いたことは、造林地の区画が非常に大きいことである。20~30年前までの植栽地は、将来的に量的質的改善が期待できない疎悪林分の林相改良を図るために伐採し跡地に植栽したもので、区画は大きくても10ha程度だが、最近造成の10年生以下のものは地形によっては1カ所で100haにも及び、緩やかな大きなゲレンデが何面も続いた状態で、快適なスキーコースであった。雪が解けるとトドマツやカラマツ、特に道央の産炭地では坑木生産のためカラマツ植栽地が姿を現した。その植栽木の成績は、特に私が調査に入った滝川経営区の歌志内地区では、数年前からブランコ毛虫が大発生し、体力の落ちた樹木には「カラマツ先枯病」が追い打ちをかけ、伸長成長は止まり樹形は箒状となり、将来、生長が期待できないので見切りを付けて「蔓伐り」等の保育を中止したため、雪害が芋づる式に発生し林内は倒木や傾斜木が至る所に散乱し見る影もない有様であった。また、場所によっては伐倒・焼却処分をしたところも随所に見られた。
これは、同一樹種を大面積植栽(モノカルチャー化)したため虫害が大発生し、その二次被害として病気が発生、蔓延したものである。さらに放置したため雪害が誘発され、これにノネズミやウサギの食害が重なり、これらの複合被害により人工林に破壊が生じたのである。場所によっては常風により又は突発的な風害により枝に損傷が生じ、これが引き金になって、同様な経過を辿り不成績となった人工林が岩見沢、留萌、函館経営区などにも数多く見られた。

7 そこで、先枯病危険地帯 (風衝地、多雪地 湿地でヤチネズミ食害多地など)ではカラマツ植栽を全面的に取り止め、植栽樹種をトドマツに切り換えた。しかし、45年頃から道北の多雪地帯でトドマツ枝枯病が発生し問題になり出した。 早急に、係に検討チームを設置し、各現場からの被害状況を報告させ、その検討過程から実証的な対策を打ち出すこととした。トドマツ枝枯病は10~15年生の植栽木で最大積雪深が1.5~2m以上の平坦地や高海抜地に集中的に発生している。原因はトドマツ造林が高海抜地に及んだ結果、亜高山帯のハイマツに羅病している枝枯病菌が植栽されたトドマツに感染したとされた。しかし、最大積雪深を脱し、3m以上に生長すれば羅病の危険性はなくなる事例がいくつも見られ、成長の遅れは取り返せないが、成林は確保できると予想できた。そこで保育の方法を変え、後生樹のダケカンバやシナ、イタヤ等などの天然更新した広葉樹と共存させながら植栽木を育成することに決めた。
大切なことは、羅病した人工林周辺では、何らかの方法で羅病危険高度を脱出するまで、隣接地には同じ樹種トドマツを植えないことである。また、樹種を混ぜて育てることが健全な林を作る上で非常に大事なことが分かってきた。このように、各地で予測されない事態が生じ、原因は判明しないが自然の力が多様に作用して各地で成林していることが見えてきた。拡大造林には予期せぬ伏兵が多い。多雪地帯の積雪下でノネズミの害、菌害 雪上でのノウサギやシカの獣害、風や虫の害、寒さや霜の害、乾燥や雪など気象の害、特にカラマツは成長は早いけれどこれらの被害に極めて弱い。
その結果、想定される拡大造林による成林の可能性は、カラマツでは3割以下、トドマツでは5割以下という極めて悲惨な状況であった。

8 安全と思われたトドマツでも、大面積の単一樹種によるモノカルチャーでは、次々と新手の外敵が現われてくる 。これに、凍害、霜害、寒風害など気象害が加わる。
これは厳しい北の自然のバランスを人為的に大きく破壊したため、かよわな若い苗木には耐えられない厳しい環境にさらされていることが明らかになった。 そこで、天然木を活かした択伐作業を基本とする天然林施業を47年から取り入れることとした。
昭和47年の第2次道有林5カ年計画では、”この時期、様々な公害等を生み出した高度経済成長は破綻し、社会的には自然保護が1つの論調となる。それに対応してこの計画では、森林の公益的機能が前面に打ち出された。計画の重点施策は、林力増強と公益的機能を強化して森林の持つ総合的機能の拡充強化を図ることを第1とし、一方では合理化を進めつつ外部からの借入金を確保することによって経営の安定強化を図ること”としている。それを担保するため、皆伐作業種の編入基準がかってなく厳格になる(傾斜25度以下 海抜高 400m未満)。一方、広葉樹幼齢林の育成や保残木作業の強化、路網を軸とした天然林植え込み等、育成天然林施業の強化等が計画され、皆伐作業種(目標人工林)は16.3万haと縮小、修正された。
このようにして、39~45年の7年間、道有林経営の計画業務に携わり、47年からの新計画の基礎を築いた。
それから10年、その間自然保護に2年、宗谷支庁での林業専門技術員で5年(造林、森林保護など)民有林の技術指導に携わった。

9 これらから見えてくる樹木、森林に対する考え方については、

私の北海道林業との関わり-2