年齢・年輪・年縞・民族移動

私は満76才で今年喜寿を迎えました。日本女性の平均寿命は世界一で87才。人の最高年齢は120才程度ですが、樹木ではセコイアで2,300年、イチイで推定5,000年、縄文杉7,000年(?)があります。最近話題の年縞(ねんこう/湖底の堆積物の縞模様など)からは、3.5万年前の先史、縄文時代の日本列島への人類移動や幾多の民族移動の年代とその要因が数年単位で解ってきました。 写真は40年前のドライブスルーのセコイア(レッドウッド)↑

年齢>
私は2017年1月に数え77歳になりました。77 歳は古くから喜寿といわれ、長寿の節目の年として祝われてきました。この前後には、還暦の満60歳、「人生70古代稀なり」の古希70歳、傘寿の80歳、米寿の88歳、白寿の99歳、100歳の百寿(いずれも数え年)などがあります。現在の日本女性の寿命は、古希は元より傘寿を越え、米寿に迫りつつあります。最高齢120歳といいますが、年齢は出生届によるので100歳を越える高年齢では不正確なものも多いといわれます。それにしても平均寿命100歳はまだまだ先でしょう。

<年輪>
樹木の場合には、年齢の確かな記録として、自身に内蔵している年輪があります。特に四季のある地域では、1年に1つ年輪が形成され、この年輪が同心円状に積み重なって樹木は太く生長していきます。しかし、竹の場合は芽を出して1年で一定の高さや太さに生長しますが、その後は材質が堅く丈夫になる程度で、8~10年間生きても大きさは変わりません。年輪が出来ず背丈も伸びないのです。
樹木の最大寿命については、米国西海岸のスギの仲間レッドウッドやジャイアントセコイアで約2,300の年輪が確認され、寿命は3,000年程度といわれます。それ以上では推定ですが同地区のブリッスルコールパイン4,900年、セイヨウイチイ5,000年があります。縄文杉は、かっては7,000年以上といわれましたが、現在では、3000年程度に落ち着いています。                        

                 写真は北海道の木アカエゾマツの年輪 約300年 ↑
年輪の測定には伐り倒して直接数える方法がありますが、どれもが伐採可能ではありません。非破壊方法として生長錐によりボーリングと同様にコアをとる方法がありますが、幹の空洞や腐れ、偏芯等により半径1m以上の巨木となると採取が極めて困難です。
生物の場合には炭素年代測定法(C14の半減期5,730年を用いる方法)があります。コアの中心部(芯)のサンプルを採り測定します。6万年が測定限界といわれますが数百年程度の補正を必要とし、現在より過去の12,600年間は、樹木の年輪年代と対応でき、しかも年輪年代では、1年も違うことなく、絶対年数が解るのです。また、それ以上の年数では、24,000年までサンゴのウラン/トリウム年代と照合できるそうです。しかし、樹木の年輪からはその生長幅の持つ情報しか得られません。

写真はジャイアントセコイアで樹齢3,000年 世界1の巨木

<年縞>
年縞とは安田喜憲博士がアジアで初めて発見し命名したもので、「湖底に毎年毎年静かに形成された年輪と同じ物である。その年縞の中には花粉、珪藻、プランクトン、ダスト、大型動植物遺体、粘土鉱物など環境史を多角的に復元できるターゲットがいくつも含まれている。グリーンランドの氷床では分析が水に限られるに対し、年縞には環境変動のみでなく人間の活動を物語る炭片や汚染物質にいたるまで、人間が自然をどのように改変汚染してきたかを、数年単位で詳細に復元できるターゲットが含まれている」と力説しています。

           環境変化と民族の移動 (安田氏ほか)↑

また、「これまで気候は千年・万年の単位で緩やかに変動するものだと見なされてきた。しかし年縞の分析結果などから、これまでの予想を遙かに上回るスピードで気候が大きく変動していた事実が明らかにされた」。安田氏は福井県三方湖の針葉樹の花粉分析の結果、から過去3.5~1.5万年の間に9回もの温暖な亜間氷期があり、氷河時代の気候が如何に激しく寒暖の変動(最大10℃)とそれに伴う乾湿の変動を繰り返していたかを明らかにしてきました。

年代測定の精度向上                                   樹木の年輪からは、約13,000年の正確な年代が判定できます。しかし、それ以前の5万年前(人類の出アフリカ期)ともなれば、c14による以外方法がなかった。だが、c14では5000年で1000年もの補正を必要とする。ところが、三方湖に隣接する水月湖の湖底堆積物の年縞数とc14による年数との関係が明らかになった。2012年、日本人の科学者中川毅研究グループにより、5万年で±169年という極めて精度の高い換算表が作成された。これにより最近5万年、日本列島に人類が住み着いて以来の出来事が、きわめて正確な年代で明らかになってきた。

万葉集「 防人の歌」と民族移動>                          「万葉集卷20」は755年頃大伴家持が選録したもので、防人の歌が多く載っていいます。
防人(崎守/さきもり)は九州の辺要の地を守る兵士をいい、東国の兵士を召集し、難波津に集め太宰府に送った。3年交替で筑紫、壱岐、対馬を守備させた。なぜ東国の人が選ばれたかは不明だが、大和朝廷が東国の力を弱めるため、ともいわれます。
万葉集4346 「父母が、頭かき撫で、幸くあれて、いひし言葉ぜ、忘れかねつる」
(訳 父母が私の頭を撫で「無事で行っておいで」といった言葉が忘れられない)
万葉集4416 「草枕 旅行く夫なが 丸寝せば、家なるわれは 紐解かず寝る」
(訳 旅行くあなたが、ごろりと丸寝をなさったなら、家にいる私は、下裳の紐を解かないで寝ましょう)防人の妻の歌。
歌には、東国方言が切々読む者の胸中に訴えるものが多いという(山本健吉)。
事の起こりは、664年に中大兄皇子が「防人と烽火の制度」を制定したことにあり、原因は、その前年、倭(大和)は朝鮮半島での「白村江の戦い」に負け、その防衛のために設けられました。 年縞分析によると7世紀は地球規模の寒冷期であり、イスラム・アラブ地域ではペストが大流行し、ビザンチン帝国が揺らぎ、ササン朝ペルシャが崩壊しました。
東アジアでは、唐が644年以来大規模な高句麗遠征を開始し、百済と倭は高句麗と連携して唐と新羅の連合軍と戦うこととなった。このような国際緊張から大化の改新は断行され、百済再興のため倭は661、663年の2度にわたって援軍を派遣したが白村江の戦いで大敗しました。さらに、668年、唐・新羅連合軍は高句麗を滅ぼすと次は倭に攻め込むという恐ろしい情報が入ってきます。7世紀の寒冷期の真ただ中、倭は大陸からの民族移動の脅威に怯えていたのです。それゆえ、筑紫、壱岐、対馬に防人を置き、太宰府に水城を築き、瀬戸内海の要地に山城を築き、都を奈良から近江の大津宮に移し、大陸からの民族移動に備えていました。
寒冷化が農業生産力を低下させ、国力の衰退を招く中で、漢民族は、暖かな豊な土地を求めて朝鮮半島、さらには日本列島へ玉突きのように押し出した事が年縞より明らかになった。これは万葉寒冷期の出来事であります。
更に時代が下がり、8~14世紀の温暖期には途中3回の短期の寒冷期を挟むという。その第1回目は900年前後で 第2回目は 1,000年前後、 第3回目は1,200 年前後である。この寒冷期にユーラシア大陸を震撼させる大事件「モンゴルの大移動」が生じたという。その一環に鎌倉幕府を崩壊に追い込んだ蒙古大襲来も含まれよう。
防人の素朴な歌の出所には、地球規模の気候変動が隠されていたのである。

大陸、半島から膨大な難民(ボートピープル)の来襲という歴史の繰り返しが、杞憂とならないように、現在豊かな日本人は、今こそ広く確かな知識や意識が求められているといえます

参考文献:文明の環境史観 <中公叢書> 安田喜徳    2004.5.10
      古事記・万葉集 カラー版日本文学全集1<河出書房>
             訳者代表 山本健吉     昭和43.3.25

       時を刻む湖  <岩波科学ライブラリー 242> 中川 毅 2015.9