悠久のエジプト8日間の旅を終えて

今回の旅行で得た新たな発見、貴重な体験を記録しておく。

1 古代エジプトの石造建築、石窟遺跡は、巨大で他に例を見ないほど太く、大きく、高く、そして広く、深く、見るものを圧倒して止まない。更に、ギリシャ・ローマより古く(メソポタミアと同じか)、世界初の巨大石造り文明の発祥地である。何故、この地にこの様な巨大な遺跡、文明が発祥したのだろうか?

アブシンデル大神殿。移設後の風景。
幅40、高さ32m、奥行き60mの大岩窟神殿。

**私の答え**

その要因は、エジプトに強力な統一国家が誕生したこと。そして、強力な力を持つ国王が、国民を1つの目的に向かわせたことにある。では、何故、エジプトに強力な国家が誕生したのか。それは、エジプトを南北に縦貫する全長6,700kmのナイル川の存在にある。ナイル川は、河口から3,000kmも南のウガンダのビクトリア湖から流れ出て、スーダンを経てエジプトに入る。ナイル川の上流部はエチオピアなど多雨地帯であるが、スーダンの半分、エジプト全土は砂漠で、その中の渓谷を流れ下る。しかし、エジプト南端から上流地域には6つも急流(滝)があり、上流から川伝いに大群の外敵が侵入することは不可能である。一方、エジプトは北面は地中海、ナイル川東西は広大な砂漠地帯が広がり、いずれからも外敵の侵入は不可能である。この様にエジプトは、外敵から守られた環境の中にある。

ナイル川は、上流地帯が雨期になると増水が始まり、6~9月は「氾濫期」と呼ばれ川沿いの平坦地は冠水する。上流部が乾期になると徐々に水が引きはじめ、10月になると黒い大地が出現する。この冠水地には、上流から流れてきたシルトが堆積し、豊かな土壌が形成される。しかも、同時に土壌中の塩分を洗い流してくれる。この肥沃な土壌に、小麦、大麦などの種をまくと6か月後には収穫期を迎える。それ故10~1月を「播種期」、2~5月を「収穫期」とし、1年を4か月ごとに3区分している。

エジプトは、ナイル川の両側約1,000kmは数kmと狭いながらも豊かな穀倉地帯であり、天然の要塞に守られた楽園である。しかも、地中海からオリエントの文物、上流からは、象牙、毛皮、果物、金属などが容易に入手できた。また、ナイル川を下ることはもとより、帆を付けた船は、海風を受けて3日ほどで奥地のアスワンまで遡上ができ、古くから交易の土地であった、という。この様な環境下で人々は生活し、富みの蓄積により王国の出現を可能とし、その統一王朝は3,000年の長きにわたり安定政権を確保してきた。

即ち、外敵への配慮が不要で、安心して、しかも長期にわたり、自己の成長と繁栄を望み、それに応えた歴代の王朝の出現が、古代エジプト文明を開花させた最大の要因であると考える。

古代エジプト人は、太陽が毎朝東の空に昇り、西に沈み、夜の間に冥界を船で渡り、朝には、再生し東の空に昇るとことを、永遠の絶対の真理と信じ、そのために永久不滅の神殿を造り太陽神を崇めることとした。これが、巨大な石の文明、永久不滅の神殿、石を割り岩盤をくり抜いて石像、石柱、石窟を作ったと大きな要因と考える。

2.5tもの巨大な石300万個も積み上げて作った、クフ王の最大ピラミッド。

2 この文明は、畜力や滑車などを使わない人力のみにより築かれた。数十数百トンもの重い石材をソリに乗せ、多くの人が力を合わせて運んだり、船に乗せて運んで、それを立てたりした、という。この技術や人力の結集するやり方は、何処から学んだのか。

また、象形文字(ヒエログリフ)は、どうやって発明したのか

 どちらも、独自の発明・発見なのだろうか?

**私の答え**

ピラミッドや巨大神殿の石柱などは、他の文明では見られない物量とその大きさには度肝を抜かれる。しかも、その建築・建設の詳細は正確に分かっていないという。それ故、途中で中止した建築、王墓、壁画、オベリスクなど例から、当時の技術を想定出来る。

それによると牛、馬、象などの畜力の利用はなく、また、滑車や車輪の利用もないという。そうなると考えられるのは「皆が力を合わせて、人力でソリを引く」ということになる。では、何故その様なことが出来たのか?それは外敵の心配も無く、何百、何千年と平和な時代が続き、そこに生まれた長期的に平和で統一された王権の統率力が、試行錯誤の結果、この様な仕組み、技術体系を編み出したと考える。

仏人シャンポリオンにより解読された象形文字(ヒエログリフ)

象形文字については、古代エジプトで文字が使われ始めたのはBC3,000年頃であり、それ以前BC4000-3500年頃には、壺や皿に図像を描いて、死者と共に副葬品として墓に納められていた。図像は、人やワニなど具体的なもので、文字のない時代から自分の伝えたいことを図像として物に表現していた。これが発展して図像と組み合わせてメッセージを伝えるようになり、そこから、デザイン性豊かな象形文字が生まれたと考えられている。人間の姿、動物、昆虫、更には星の光、ピラミッドの形等も文字にしている。この象形文字が、エジプトの場合は”神のお言葉”「聖刻文字」(ヒエログリフ)と呼ばれる。

カルナック神殿の風景。巨大石柱のヒエログリフ(象形文字)。

ヒエログリフを神殿の壁に見つけると、形自体が何を表しているかは誰にも想像できる。しかし、それが何を伝えようとしているのかは解らない。ヒエログリフは、その文字の写している「ウズラのヒナ」や「スカラベ」を意味しているのでは無く、その文字には、定まったいくつかの「音価」、即ち読み方があって、その音を持つ単語の1部を表すために使われているという。ウズラのヒナが「私を」という代名詞を、人間の眼が「行う」、スカラベが「生じる」という動詞に使われている、という。

この文字は、700~1000程有り、漢字に比べると少ない。このようにして、文字と図像表現を組み合わせメッセージとして伝えるのは、エジプト文明独特のもので、早い時代に誕生したにもかかわらず、他のいずれの文明にも採用されず、ギリシャ・ローマもこの文字を学んで記録がないという。

この文字が解読される1822年までは、この図像は単なる飾りと解されていた。この解読により、パピルスを初め神殿の壁、柱、王墓の洞窟、玄室、石棺などに書かれた全ての文字が読み解かれ、古代エジプトの年代記、歴代王家の家系、死者の書や神話など膨大な歴史的資料になり、エジプト学は素晴らしい発展を遂げた。ここに記す物語も全てその恩恵である。

ピラミッドの作り方。ゼロからわかる古代エジプト 近藤二郎より引用

3 クフ王のピラミッドは、1つ2.5tもの石を約300万個、210段にわたって積み上げたという。これらの石を何所からどのようにして伐りだし、運び、積み上げたのだろうか?

**私の考えたこと**

現在、ピラミッドは何のために、どのように作られたかが不明であるという。今回はどのように作られたかについて考えてみる。エジプト学の権威、吉村作治先生によると、ギザの3大ピラミッドは、ギザ台地という大きな厚い石灰岩の岩盤の上に立っているという。 ピラミッドの内部には石が積まれており、この石はピラミッド周辺の石灰岩の岩盤から青銅のノミや金槌で小さな穴を開け、そこに木または石や青銅の大きなクサビを打ち込んで割って切り出したという。この時代は青銅器時代で未だ鉄器はない。それ故、硬い石(石器)も使われたという。

ピラミッドの内部は石灰岩が主体で、表面の階段部分は固い花崗岩が使われた。花崗岩は、数百キロのも離れたナイル川周辺の石切場から切り出され、船運で運ばれ、増水期には、ピラミッドのすぐ近くに横付けされた(それら水路は今も残っている)。更に、ピラミッドの表面はぴかぴかに磨かれた白色石灰岩の化粧石で覆われていた。今でもNO.2のカフラー王のピラミッドの頂上部にはこの化粧石が残っている。

これらの石を積み上げるには、勾配の緩やかな運搬用の道を、ピラミッドの高さに応じて土で積み上げ、その上の道をソリに石を載せ大勢の人数で引き上げた。この様にして積み上げ、頂上部の化粧石の設置が終わると、逐次運搬道を切り崩しながら順次下部に化粧石を張り完成した、と考える。なお、全ての石組みには、大量の石屑が生じる。これらは、ピラミッド内部の石を切り出した、周辺の岩盤の穴を埋め戻しながら整地したと考える。これは私の考えでなく、吉村先生他多くの研究者の考えであるが、それ以外にないと私は思う。

大英博物館で最も有名な収蔵品「ロゼッタストーン」。高さ114cm、幅72cm。1799年に発見。

4 ナポレオンが、エジプトの植民化を目指し、5万の兵を連れ遠征した時に発見した「ロゼッタ・ストーン」が、20年後、仏人シャンポリオンにより象形文字の解読なされ、これによりエジプト学が確立され学問的の大発展が成された。しかし、何故ロゼッタストーンはルーブルにではなく大英博物館にあるのか?

**私が調べたこと**

西暦1600年代以降、フランスは、イギリスとの植民地争奪戦争で、インド、北米、アジアにおいて敗北していた。ナポレオンは、フランス革命以降破綻した国の経済を立て直すべく、地中海に面し、弱体化したエジプトの植民地化を狙っていた。

1799年、ナポレオンは5万の将兵を連れ、目的地を知らせないまま出港した。その中には、ナポレオンという若い将軍の呼びかけに応じて、パリで最も優秀な知的集団である科学者やエンジニア、芸術家等151名が含まれ、夢を膨らませて未知の航海に旅立った。

しかし、3年にわたる無謀の遠征は、コレラ、食糧不足、気候不適応、地域との軋轢など惨憺たる状況で終了し、遠征は失敗した。だが、151名の学術的調査活動が悲惨なエジプト遠征に唯一意味をもたらした。その1つがロゼッタストーンの発見である。

1798年、エジプト遠征隊は、地中海に面したロゼッタ近郊に要塞を設けた。その建物の古い壁の中から、1枚の石碑を発見した。そこには、ヒエログリフ、モデニック、ギリシャ語が3段になって書かれていた。当時、ヒエログリフは解読されていなかったが一行の中に、ギリシャ語がヒエログリフの翻訳であろうと推測するものがいた。

ナポレオンのエジプト遠征は失敗し、イギリス艦隊に取り囲まれる中、ナポレオンは独り密かに脱出したが、残された科学者や知識人は、命より大事な3年間の貴重な成果を抱えて、遅れて帰国することになる。しかし、タダでは帰国が出来ず、イギリスの海軍力の前にひれ伏し、様々な交渉の後、引き出物として「ロゼッタストーン」を提出し、やっとフランスへの帰国が認められた。

それ故、ロゼッタストーンは今なお大英博物館に鎮座している。なお、その台座には、「イギリス陸軍により、1801年にエジプトで取得」と小さく記されているという。蛇足ながら、私はS53(1978).3.2 海外研修の際、シャンポリオンに惹かれて、友人と大英博物館を訪れ、このロゼッタストーンを見ているが、この台座の記憶はない。

これにより、フランスの最大の発見が、彼らの最大の敵イギリスに渡ることになり、フランス人はこの事を決して忘れていなかった。それから20年後の1822年、フランスの言語学者「シャンポリオン」は、この碑を読み解き、この点では、イギリスの学者を打ち負かし雪辱を果たしたことになる。

ラムセス2世のミイラ。在位BC1279-1212。

5 古代エジプト人は、「現世では人は死ぬ、だが、来世で永遠に生きよう」と考えた。そのため、死者の宿るミイラが必要となり、エジプトだけで数百万体(1説では1億体)ものミイラが作られた。しかし、インドの釈迦は、輪廻転生、極楽往生を説き、中国の道教・儒教は、不老長寿を願い、その薬を探し求めた。この死生観の違いは何なのだろう?

**私の答え**

◎古代エジプト人は、死後再生・復活して、永遠の生命を得ると考えた。

古代エジプト人にとって、人間の存在に欠かせない要素としては「バー」、「カー」、「アク」の3つの霊魂を上げている(他に「名前」、「影」があるが省略)。

「バー」は、個人を特徴づける精神的な部分の全てを象徴するもの。バーは、死後肉体を離れ自由に飛び回ることが出来る。「カー」は、霊的存在で、墓に供える区物を受け取り、生命力を維持する役割を果たす。供物の受け手である。「アク」は、上記2つが合体した結果、形成されるもの。アクになることで永遠不滅で不変の存在となる。死者が冥界で暮らすときの形である。

霊魂が冥界から戻ってきた時に宿る場所として、肉体を残さなければならず、人間の体をミイラにしたのである。それでは、何故ミイラを考えたか、これは、砂漠という厳しい環境に埋葬された死者が自然にミイラ化にした事例が多数あったからであろう。

これらを参考に、来世で再生・復活し、永遠の生命を得るため、古代エジプト人は試行錯誤を繰り返しながらミイラ造りを完成させた、という。以上、吉村先生の御説である。

では、何故、人は死に、死後再生・復活し永遠の生命を得るという死生観を得たのであろう。それは1でのべたように、太陽は、毎朝東の空に昇り、西に没して死する。夜間に冥界を船で渡り再生し、朝には、再び東の空に昇るとことを願い、これを永遠の真理と信じる。この事と同様に、死者は太陽神ラーと共に聖船に乗り冥界を旅し再生することを望んだからであろう。

◎これは、新約聖書の「三身一体の教理」と良く似ており、キリスト教がエジプトより学んだものであろう。

◎2500年前インドに生まれた釈迦は、生きることは苦に満ちている。仏教は、生死の苦痛から解脱することを目指す宗教である、と説いた。

生死一如といい、生と死を一体と考えて、死は、輪廻から解放への道とされた。

この様に、仏教では、生死輪廻を経て、因果応報の法則に従って死後の世界が決まるとされている。つまり、人の行いによって、次の生まれ変わりや死後の世界が影響を受けると考えられている。以上より、釈迦の説く仏教の本質は、死後の世界を肯定も否定もせずに、つまり厳密には説明はせず、輪廻や因果応報の法則を通じて死後の存在が考えられた

この教えにより、人々は日々の安心と希望を得ることが出来た。

◎孔子の説く儒教では、人は死んだら「そういう人がいた」という記録になるだけと考えられていた。それ故、真に簡単明瞭に「不老長寿」を望んだのだろう。

6 エジプトのナセル大統領は、アセワン・ハイダムを、20世紀にピラミッドといい、10年の歳月をかけ、旧ソ連の援助で高さ111m、長さ4000mの巨大ダムを建設した。これにより豊富な電力の供給、広大な農地の潅漑、洪水の抑制が可能となりエジプトの近代化が図られた。しかし、一方では、冠水が亡くなり、農地の塩化が進み、地力の低下が深刻になり、更に、遺跡の水没、降水量の変化など今日的な環境問題が生じている。

ナセル湖から直線的に広がる豊かな灌漑用水。

**私の答え**

近代科学の成果の活用は、諸刃の剣である。その成果をどのように評価するのか?、例えば、長期的に、また、短期的に・・・、また、地球的に、または地域的に?・・・等様々なレベル、視点からの評価により様々な答えが出てこよう。即ち、「答え一つでは無い」と考える。

今回、ダムが完成し50年以上経過し、水位が60mも上昇したナセル湖の豊かな水を巨大で直線的な長い水路により、これまた広大なリビア砂漠の中に水を引き込み、砂漠を潅漑する事業を見た。その時、先ず浮かんだのは、こんな単純なことで砂漠の緑地化が図れるのか、他に及ぼす予期せぬ影響はないのか・・・、という大きな疑問であった。即ち、灌漑地域全体を1つの有機体と考えると、ナセル湖は心臓、用水路は大動脈、これらは整ったが、そこから分かれる大小のそして毛細血管まで含めた血液循環網はどのように整えるのだろうか。静脈流の機能は… 、それらのノウハウはあるのだろうか?

観光バスの窓からこれまでの実施の箇所を見ても、僅かな緑は見られるが、計画した緑地化が成功しているとは、とても思えなかった。結果は遥か先のことか・・・

これも、より長期的、地球的な視点から、また、化学肥料の使用など、土壌というミクロの視点からの検討・評価が求められてこよう。 私の能力はこの程度です。    以上です。

今回の「悠久のエジプト8日間の旅」は実に実り多いものでした。      ではまた!!

 

「追記」

この他、煩わしく難しく面倒で、答えが見つけられない宿題は一つ、下記の通り。

どの観光地でも就学児童が安物の土産を売りに観光客に纏いつく。児童ばかりでなく大人はよりひどい。貧困が原因なのだろうか。これらは、地域の人もいるが、周辺国からの移住者、移民の人達の家族なのだろうか?

 「古代エジプトの繁栄と現代エジプトの高度社会化(豊かさ)への乗り遅れ」というギャップはどのように生じ、どのように解消すべきなのだろう。否、解消は可能なのだろうか…?

 民地主義、宗教、人種差別・・・。  反省のない無意識の行動の数々 !!

  参考図書

   古代エジプト なるほど辞典    吉村作治 監修 実業之日本社   2001

     古代エジプトを知る辞典   吉村作治 監修    東京堂出版  2005

     ゼロからわかる古代エジプト  近藤二郎 Gakkenn 2013

     古代エジプト解剖図鑑  近藤二郎 株式会社エクスナレッジ 2020

     古代エジプト文明 レンツォ・ロッシ 松本弥 訳   PHP 1999

     ギザの大ピラミッド  ジョン・ピエール・コルデアーニ 山田美名 訳 創元社2008

     ナポレオンのエジプト ニナ・バーリー 竹内和世 訳 白揚社2011