悠久のエジプト(EGYPT)8日間の旅(5)

5年の歳月をかけ、1968年に60m山上に移設したアブシンベル大神殿。建造はBC1270  ラムセス2世。120m右に王妃の小神殿がある

〇 切りかけのオベリスク、アスワン・ハイダム、アブ・シンベル神殿

昨夜のコム・オンボ神殿観光による寝不足に構わず、5:30モーニングコール、6:00朝食、7:00に下船しバスに乗り「切りかけのオリベスク」の観光に出かける。1時間後再びバスに乗り、アスワンダムを通過する。ダム周辺には流石に緑は多いが、少しはずれると褐色の瓦礫の死の世界。その中をバスは上流にあるアスワン・ハイダムに向かう。

昼食はハイダム近くのレストランで、タジン料理。それから260km、3時間半、砂漠をバスは走り、アブシンベル神殿に着く。この神殿はアスワン・ハイダムによる水位の上昇で水没するため、移築したもので大小の2神殿があり、約2時間観光。その後再びバスで3時間揺られ、船に戻る。こうして長い1日は暮れる。

1 切りかけのオベリスク

古代エジプトで、神殿や塔門の前に対になって立つ宗教的、装飾的記念柱。長大な1本の石からなり、アスワン産の花崗岩が切り出され、ナイル川の船運で遠方まで運ばれた。     オベリスクはバーベキューの「焼き串」を意味するギリシャ語(オベリスコス)に帰するという。古代エジプトでは、太陽信仰に深く関わり「太陽から降り注ぎ地上に達する光線」を意味した。オリベスクの先端部は、ピラミッドの様に四角錐となり金箔で覆われ、光り輝いていたという。

アスワンの採石場には、今でも、3面は切り取られているが、底面は岩盤と繋がった、未完成の 花崗岩製オベリスクが横たわっている。これは長さ42m、重さ1,200tもあり、切り出し作業中に割れ目が入り放棄されたものだ。当時は、長方形の穴を岩に掘り、木また青銅製のクサビを打ち込んで岩を割ったという。それにしても、全てが人力であり、花崗岩の岩脈の自然の節理を探りあて、ノミとクサビで割っていったものだろう。その技術と執念にただただ脱帽。これが無事切り出されていたら世界最大、という。

現在、エジプトに立つオベリスクは4基、1対で立つものはなく、片割れはパリやロンドン、アメリカ、イタリアに立つという。西洋人は皆、その技術と執念の虜になったのだろう。

2 アスワン・ハイダム

初代エジプト共和国大統領ナセルは、このダムを20世紀のピラミッドと呼んだ。ナセルは、1952年のクーデターによりムハンマド・アリ朝を倒して政権を握り、アスワンダム(1920年に英国が建設)の上流7km地点に、アスワン・ハイダム(着工1960)を旧ソ連の支援で建設する。

その財源は、スエズ運河の国営化という強硬な手段を用いた。これは「スエズの動乱」と呼ばれ、第2次中東戦争へと発展した。

10年余の歳月を掛け1971年に完成したダム及びダム(ナセル)湖は、 堤長3800m、高さ110mで広さは琵琶湖の7.5倍という巨大なものだ。ダム湖の長さは500km(内スーダン領150km)、湖水幅は最大30km、ダム湖水面は60mも上昇し、砂漠の奥まで潅漑が可能となった。一方、ダム建設で数多くの遺跡が水没することになり、ユネスコが世界に呼びかけ、水没地域の調査が行なわれ、アブシンベル大・小神殿の他イシス神殿など多くの遺跡が水没から免れた。

これにより、ナイル川の氾濫は収まり、1万Kmの潅漑が可能となり、豊富な電力はエジプトの工業化には貢献したが、反面、農地の塩化、地下水の上昇、化学肥料依存の農業、遺跡の水没、降水量の増という、現代的な環境問題を生み出した。

なお、当時の日本は、戦後の復興期にあり、この支援には残念ながら協力できなかった。

ハイダム周辺には、真っ赤な花を付けた木が多数見られた。これはアカシアである。アカシアはオーストラリア、アフリカ原産で数百種類あるという。札幌でよく見られるアカシアは白い花が多くニセアカシアと呼ばれ、北アメリカ原産で別種である。

昼食は、郷土料理「タジン」。タジン鍋は、我が家にもあるが、北アフリカで使われる土鍋で、それを使った魚、肉、野菜の蒸し焼き料理である。残念ながら美味だったという記憶はない。

3 アブ・シンベル大神殿

第19王朝、ラメセス2世は、南に隣接するヌビア(現スーダン共和国)に勢力を誇示するため、大小の2つの神殿を建造した。この神殿は、砂岩をくり抜いて作った岩窟神殿(BC1270)で、大神殿入口に立つラメセス2世の4つの巨像(高さ21m)は、見るもの全てを圧倒する。しかし、この神殿は長く砂に埋もれており、1813年に発見されたが、砂が全て取り除かれたのは約百年後の1909年である。

その後、ダム建設により水没の危機にさらされたが、5年かけて、1968年、約60m山上に移築され、今日では、多くの観光客が訪れる。

ラメセス2世は、大神殿と並んで120m右手に、結婚25年を記念して王妃ネフェルトイリのために小神殿を造り、これも同様に移築された。この正面には、高さ10mの王と王妃の巨像が交互に立つ。しかし、王妃は神殿の完成を見ることなく、40歳でこの世を去ったという。

これら神殿の背後に立つ博物館には、移設当時の映像が放映されている。それによると、神殿は、山ごと数千(大神殿は凡そ1000)のパーツにノコギリで切断され鉄筋コンクリート製のドーム上に移され、貼り合わせて復元したという。その際の使われた接着剤は日本製という。こうして再現された両神殿は、今なおナセル湖を臨み燦然と輝いている。

参考

ラメセス(又はラムセス)2世エジプト遺跡では、「石を投げればラメセスの記念物に当たる」と言われるほどの建築王である。カルナック神殿、ルクソール神殿、それにアブシンベル神殿では、神々と並んでこの王の像を見ることができる。さらに領土拡大のためシリア、ヒッタイトと隣国の強国に4回も軍事遠征を行い成果を上げている。92歳で没し王在位66年に及ぶ。子どもは100を超えるほど設けた、という。

次回は、いよいよピラミッド!!

では、また!!