我が故郷 山梨の生家、売却となる ‼

S39大学を卒業し、山梨を離れ北海道庁に採用され35年間勤務しH11退職。それから第二の職場で10年、H21には地元町内会長を引き受け、H25年には町内会創設50周年記念行事を無事済ませ翌年会長を辞す。時間に余裕が生ずると急に山梨の実家が心配になり始めた。

生家では、S51 父が逝き、H17に95才で母が逝くまで約30年間は母一人が管理してきた。

父母は、S45 私が郷里に帰ってきても住めるようにと茅葺きの母屋を瓦葺きとし風呂を新築するなどして待っていた。

S45 かやぶき屋根を瓦ぶきに改修した母屋

しかし、母一人では大きな屋敷は管理出来ず、最後の10年間は県の養護施設で過ごした。母の死後は生家は無人と化し、年と共に建物は荒廃していった。 H28.2 一晩で約2mにも及ぶ豪雪に見舞われ、これを契機に建物の損傷は一段と進み、翌29年には9棟のうち母屋他2棟を残し全てを解体・撤去し、  約1千坪の敷地と土蔵など跡地は、塩山に拠点を持つ古民家修復を業務とする「伝匠舎」さんに活用をお願いした。

(以下はH29の解体風景。⓷は、前掲の建物図面の番号。)

程なく(H30.5)広大な空地に目を付け、地域の不動産屋が太陽光発電の対象にどうかと打診してきた。よければH31.1には太陽光パネルの設置を始めたいという。

この提案は意外であった。しかし、隣家にはもうパネルが設置済みで発電している。

我が生家は、集落の中心に位置する。2軒もの大規模なソーラーパネルを集落中心部に設置するのは地域のイメージダウンに繋がらないか、地元町内会に問い合わせたところ、止めて欲しいが、その権限も金もないと言ってきた。それなら地域に役に立つ産業の誘致にでも使ってくれと言ったら、それもないという。

NPO「山梨家並保存会」の 南アルプス民家村 構想 

そこでこの話は取りやめにし、伝匠舎の古民家再現、NPO山梨家並保存会の活動に的を絞り、客の現れるのを待つこととした。H30年8月のことである。

以下は解体後の生家の空き地風景。

そして令和3年(2021.2) ついに客が現れた。客は、伝匠舎さんの前身、身延町の下山大工集団の棟梁の家近く、隣接する南部町の住人で 息子夫婦のため安全で自然豊かな居住地を捜していた。特に、コロナ禍でもあり、田畑付きで相応の広がりがあり、しかも眺めの良い土地を求めていた。それには我が生地がぴったりで、しかも実物を見たら大変気に入り、それから話しはトントン拍子に進み、6月には我が生家で土地売買契約、7月には買手の静岡県境富士川沿いの南部町で建物契約が交わされた。

実際の城明け渡しは、今年末の大晦日とし、十分な時間的余裕が持てるのも魅力だ。

しかも、これまで苦労して育ててきた屋敷内の広葉樹の森つくりは、生家と同市(田島)に住む息子さんが引継ぎ、下刈りなど植栽木の保育や屋敷内の除草を楽しみにしてやるという。       7月、契約のため帰省すると、息子さんが刈り払い機を携えてススキを刈りにやってきた。そして夕方、契約を終え彼の生家南部町から帰ると、奥さんが就学前の女の子を連れてきて、我が生家の庭で自転車で遊んでいた。これは驚きであった。

残る建物と左は枇杷、中央は西洋クルミの大木

庭には枇杷の実がたわわに実り、西洋ぐるみの大木は何百何千という緑の大きな実を着け、新しい住人を祝って迎えてくれていた。 

去りゆく者、新たに住み着く者、その思いはそれぞれ・・・

私には万感迫るものがあった。それは  故郷」

うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川、夢は今もめぐりて、忘れ難きふるさと。

甲府盆地西端の扇状地上に広がるわが故郷

いかに居ます父母、つつがなしやともがき。雨に風につけても、想いいずるふるさと。 

志を果たして、いつの日にか帰らん。山は青きふるさと、水は清きふるさと。

我が家は江戸時代以降この地で4代、私は5代目だが、残念なことに2018.2の息子の不慮の死で途切れてしまった・・・

域地にとっては、若いご夫婦と修学可能な児童の移住、転入は絶えて久しく、これは何にも換え難い最高のプレゼントになろう。

この若い世代には、どのような時代をも、たくましく生き抜いて欲しい。

若きご家族の前途に幸あれ!!

コメント

  1. 樋泉実 より:

    お疲れ様でした。万感の思いと推察します。