84才の誕生日、豊友会新年会と重なる!!

満84歳の誕生日。自宅の書斎にて(2025.1)

令和7年1月、私の巳年七回目満84才の誕生日が、偶然にも我が老人会の新年会と重なった。こんなに恵まれた誕生日は生まれて初めてであった。

この日は朝から晴天で、予報通り最高気温3℃と例年より約4℃も暖かな日であった。 朝9:30、副会長宅前でタクシーを待ち、役員6名が2台に分乗して会場のホテルに先行。会員は、ホテルのマイクロバスで1時間ほど後に元町公園から出発した。先発隊は、会旗をはじめ必要な会場整備を終え、AM11:00  予定通りの開会となる。

先ずは、物故者の冥福を祈り黙祷。続いて、会長挨拶。

そして来賓である団地自治会長H氏の挨拶と会は順調に進む。今回の新年会は、コロナ禍のもと五年ぶりの開宴であった。私は、会長として次のように挨拶した。

皆様、新年あけましておめでとうございます。今年も皆様と一緒に、新たな一年を迎えることができ、大変嬉しいです。とはいえ既に1月も末、それに新年会も5年ぶりの開催であり、また、私も昨年四月に会長になったばかりであり、この間に出来たことは、地元自治会との連携維持に務めた程度です。具体的には、5月の「花トピア運動」では公園や会館の花壇の整備(花植え)、7月の「ふれあい祭」には有志がボランテイアとして会場設営、売店支援などに関わったこと。そして、その一環として、本日は来賓として団地自治会の会長・副会長にご出席いただいております。これからも一層の「自治会との連携の強化」を図っていきたいと思っておりますのでよろしくお願い申し上げます。

さて、我が国を取り巻く周辺の国々、世界の状況は、覇権争い、長引く戦争や内戦など分断と対立が一段と激しくなり、米国ではトランプさんが4年ブルに返り咲き、バイデンさんの民主的な政策を悉く覆して対立をあおっています。今後どのような展開になるか不明で不安な状況です。

私達の老人会は30人そこそこの小集団ですが、この会を昨年より少しでもより良くするためには、会員各位の「寛容と協力」の精神の発揮を心より願う次第です。それには、お互いの意見を尊重し、理解し合うことが一番です。何事にも積極的に参加し、可能な活動に協力することで、楽しいイベントや有意義な時間を共有できると思います。

皆様のご協力とご参加が、私たちの会の活力となり、これからも元気で笑顔あふれる一年となりますよう、共に歩んでまいりましょう。また、団地自治会の皆様のご支援、ご協力をお願い申し上げます。どうぞ、よろしくお願いいたします。  以上です。

来賓のH会長も同様の主旨でお話になり、加えて、両会のお互いの支援・協調関係を強調されておられました。

続いて宴会に入り12:00頃から余興時間となる。

 先ずは、ビンゴゲームが始まった。これは、来賓の都合もあって、予定を変更してのスタートである。この後は、カラオケ大会へと続く。私は音痴で上手に歌えないのに、カラオケ1番乗りで、一度歌いたいと思っていた「お山のスギの子」を選ぶ。このカラオケ機は10万曲を用意しているという。「スギの子」で検索したら出てきた歌だ。

これは、先の戦争で旗色の悪くなったころ、竹槍婦人部と同様、一億火の玉、欲しがりません勝つまでは、ぜいたくは敵だなどと青少年を対象にしたプロパガンダであるが、戦後、山村に住む私にとっては忘れることの出来ない数少ない唱歌である。 それから延々一時間、多くの会員が2回3回とマイクを握り、好きな歌に詩吟に興じ、楽しい時間を持った。あっという間に予定の1:30になり、会は散会となる。 会員の多くは満ち足りた気持ちで、ホテルの送迎のバスで朝来た道を帰っていった。

これで久々に開かれた新年会は成功裏に無事終了した。準備万端を進めて来たH部長は家庭の都合で欠席、残念であるがH氏には感謝、感謝である。

そして私の誕生日も無事楽しく過ぎていきました。

最後に1925(大正14) 作詞:斎藤信夫 作曲:弘田龍太郎 お山のスギの子」

昔昔の その昔 椎の木 林のすぐそばに 小さなお山が あったとさ   あったとさ

丸々坊主のはげ山は いつでみんなの笑いもの 「これこれスギの子 起きなさい」お日様ニコニコ 声かけた  声かけた

一二三四五六七 八日九日十日経ち  ニョッキリ芽が出る 山の上 山の上

小さなスギの子 顔出して「ハイハイ お日様こんにちは」 これを眺めた椎の木は  アハハの アハハと大笑い  大笑い  

こんなチビ助何になる ビックリ仰天スギの子は 思わずお首を引っ込めた 引っ込めた

引っ込めながらも考えた ナアンの負けるな今に見よ 大きくなって国のため お役にたって見せまする  見せまする  ( 以下 省略)

以上です。ではまた!!