満80才の誕生日を迎えて

満85歳を目指して、元気な一歩を !!

2021年1月、私は満80才になりました。これを大地や太陽の神々に感謝し、亡き父母に報告しました。現在の平均寿命男性81才から見ると、全く当たり前で特に取りたてて喜ぶことではありませんが、明治42年生まれの父が67才で逝き、祖父は50代で亡くなっている事を思うに、やはり、祝うべき長寿であるといえましょう。

現在の私は、腰の疾患で下肢が痺れる、体が思うように動かないなど多少の欠陥がありますが、ストックをついて2km位は休みなしで歩けるなど、何とか自活できる状況にあります。 今日からは、満85才迄の生存を目標に頑張っていくつもりです。それにしても我が慎ましやかな人生80年。ようここまでやってこれたものです。感謝の毎日です。僭越ですが、恩師の四手井先生に倣って、20年ごとに我が人生を振り返ってみます。                形見とて何か残さむ春は花 夏ホトトギス 秋はもみぢ葉  良寛

Ⅰ 山梨での生活(S16~S35年)

戦後 S23年、小学校に入学、S34年3月巨摩高校卒業、後1年間自宅での受験勉強。中学時代までは、シカの研究者高槻成紀さんの著書にある、文部省唱歌「ふるさと」どおりの「うさぎ追いし彼の山、小鮒釣り彼の川」でした。うさぎは「括りワナ」、フナは釣り竿と「ガラス製の筌(ウケ、地元ではビンブセ)」で捕りました。 故郷は、まさに里山の自然が活発に息づいていた時代でした。

我が家は、甲府盆地の西はずれ、数多ある扇状地の1つの要(カナメ)の部分「扇頂」に位置し、農林業を営み、大きな平家造りの屋根は茅葺きで、庭では大豆や米・麦を脱穀し乾していました。その頃の最大の思い出は、集落の中央にあった日蓮宗の大寺院「妙了寺」の火災です。 妙了寺は、国中(県中央部)3大寺の筆頭で、日蓮宗の甲斐の国触れ頭であるため「裏身延」と呼ばれています。触れ頭とは、本山や寺社奉行の命令を配下の寺院に伝える役目を負う、言わば地域の総元締めの寺院でした。なお、我が生地(集落)は、江戸時代徳川家の御三郷の一つ田安家の所領となりましたが、御世継ぎが生まれず、妙了寺に祈願したところ男子が産まれ、成長して明治維新後、徳川家16代当主・家達となりました。そのため、妙了寺は徳川の家紋(三つ葉葵)付きの駕籠と十万石が与えられました。子供の頃はこの駕籠をよく見たものです。ところで火災ですが、S24年4月8日「花祭り」に打ち上げた「花火」が原因で火災が発生し、我が集落は約100戸で、全焼した寺境内の僧侶住居以外は1戸も延焼しませんでした。炎により高く吹き上げられた火粉は、強風にあおられ風下の500m程離れた集落に飛び火し、そこでは2日掛けて延焼し100戸以上が消失しました。 小学校2年の時の出来事で、クラスの数人の女子は着飾って「お稚児さん」に参加しており、逃げまどいました。寺はその後再建され、今でも桜の名所として多くの観光客が県外から見られます。

 次に記憶に残るのは、全国に5,100人もの死者を出したS35年の伊勢湾台風です。山梨は高い山に囲まれ台風被害の少ない県ですが、この年には富士川に沿って台風が北上し、甲府盆地で南アルプスにぶつかり大雨を降らせ、我家の裏の川も1晩中轟音を響かせて洪水が流れ下り、翌朝には川底は数mもえぐりとられ、甲府盆地を横切る釜無川からは洪水が溢れ、しばらくの間は鏡のように光っていました。 又、大風で扇状地上に拡がる甲州名産ブドウの棚も多くが倒れ、高校生までその復旧に動員されていました。

周囲を囲む山々に関しては、中学時代に裏山の櫛形山(2051m)の登山があり、カラマツやツガの巨木の原生林と絨毯を敷いたような林床のコケ群落に驚かされました。また、高校時代には富士登山が全校単位で催されました。登山者にはアメリカの青少年(駐留軍の子弟?)も多く、始めて外国人と接しました。

Ⅱ 京都と北海道での生活(S35~H11年)

1 S35~39 京都での大学生期

 この4年間は京大農学部で林業・森林生態学を学びました。教養時代のS35年は、宇治市にある黄檗宗総本山万福寺に下宿、学部時代のS36~39は、京都市左京区北白川(銀閣寺付近)に下宿しました。

1)印象深い出来事(S35~39年)

① この期間で特に印象に残るのは、S35に生家を出て初めての生活、大学教養部が、京都市の郊外宇治市黄檗にあり、近くの万福寺境内の末寺に下宿したことです。万福寺は黄檗宗の総本山で、江戸時代(1654)に隠元禅師の創設した中国風の禅寺です。山門と伽藍、赤松の庭園、五百羅漢、卍崩しの講堂、若い禅僧・学僧の座禅、深閑とした境内。見るもの全てが珍しく、目くるめく日々でありました。又、大学(分校)は、旧陸軍の火薬庫跡に建てられ、森や池が多く自然一杯の広大な敷地で、ホームシックなど無縁の場所でありました。又、自転車での行動圏内に国宝の平等院鳳凰堂があり、宇治川に架かる大橋の上で滔々と流れる水を眺めながら平家物語(宇治川の合戦)に思いを馳せていました。残念ながら源氏物語の宇治十帖には思いも至りませんでした。

農学部のある京都市左京区に移ってからの3年間の思い出は、銀閣寺道から南禅寺に続く疎水沿いの「哲学の道」とその周辺の諸寺でした。法然院、鈴虫・松虫寺、永観堂、そして終点の南禅寺の巨大な山門、その脇の煉瓦造りの立派な水道等々です。

この哲学の道は、上洛する毎に必ず辿るホットスポットであります。

2 S39~H11 北海道庁の勤務

大学卒業後は、35年間北海道庁の履歴は次の通りです。

昭和39年4月1日  北海道林務部 道有林課 勤務

昭和48年5月1日  宗谷支庁 経済部林務課

昭和53年4月1日  北海道林務部 道有林課

昭和61年4月1日  北海道開発調整部 経済調査室

昭和63年4月1日  北海道立林産試験場

平成 3年4月1日  北海道林務部 林業振興課

平成 6年4月1日  函館道有林管理センター

平成 8年4月1日  北海道生活環境部 自然保護課

平成10年4月1日  北見道有林管理センター

平成11年5月31日 北海道林務部 退職

1)道職員期の印象深い出来事(S39~H11年)

① 北海道職員35年間で、特に記憶に残る出来事は、S48~53年、我が国最北端の稚内市での生活と海外研修であります。

稚内(宗谷支庁)での本来業務は、林業普及(林業の技術的支援)でしたが、丁度その時期、利尻・礼文国定公園にサロベツ原野を加えての国立公園昇格が話題となり、この業務に全力投球し、無事我国30番目の国立公園を誕生させました。そのお陰で、残る一年は、林業普及関連の先進地視察という「海外研修」の幸運のくじを引き当てました。

国立公園昇格の一切を受け持ち、先ず、サロベツ原野の湿原植生の勉強を始めました。地元の植物愛好家や北大植物園の辻井達一先生の指導を受け植物のリストアップし、さらには公園事務所の建設、その間の公園管理事務のため両島には何度も渡航しました。利尻山(1,718m)への登山の機会は失しましたが、サロベツ原野の沖、遥か海上に浮かぶ利尻山の勇姿は、今も心に深く刻まれています。

② 海外研修の思い出は、オレゴン大学林学部を訪れた後の米国西海岸の「レッドウッドの森」とヨセミテ渓谷の氷河に削られたU字谷「ヨセミテ・バレー」です。共に、国立公園でレッドウッドの森は、カリフォルニアの海岸沿いに生息するスギの仲間で、シャーマンツリー、ドライブスルーツリーなど最大で樹高100m以上、直径5m、樹齢3000年、樹皮の厚さ60cmの巨木2,000本もの森です。

ヨセミテ渓谷では、1,000m以上も垂直に立つ花崗岩一枚岩のハーフドーム、エルカピタン、そしてブライダルベールの滝など、米国立公園のスケールの大きさには度肝を抜かれました。また、整備された散策路トレイル、観光客用の無料のシャトルバス・・・どれも皆珍しく立ち去り難いものでした。

③ 自然保護の勤務は、2回あり、初回は、S46~48年で、全国に先駆けて制定された「北海道自然保護条例」の基づく「環境保護地区や記念保護樹木」などの指定業務でした。

特に記憶に残るのは2回目のH8~10年の「知床国立公園内民有地の国有化」事業でした。これも前例のない知床半島中央部ルシャ・テッパンベツ川両流域のヒグマの巣ともいえる民有林数百haの国営化のための道費買い上げでした。

業務が順調に進み、買い上げ決定がなされると想定外の展開となりました。当時は、既に90%が完成していた「士幌高原道路」の残るトンネル開設が大きな自然保護問題となっており、偶々やってきた知床視察団の衆議院特別委員会により全く突然にこの道路建設の中止が決まりました。関係者の驚きは大変なものでした。これは横路知事から堀知事へ替わって間もなくのことであり、この決定は忘れられないグッド・ハプニングでありました。

④ 家庭に関して

S45、親戚縁者小池さんのお世話で、高校の恩師駒井政五郎氏夫妻の仲人により同郷の樋泉家の3女と結婚。彼女は、県立病院の臨床心理士。結婚で退職し札幌に移ってからは医大や民間病院で仕事を続けました。S48、49、長男(札幌)、長女(稚内)が誕生。

稚内では家族4人の官舎住まいで、自家用車を購入しサロベツ原野や阿寒、知床など道北の景勝地、地元の利尻・礼文島に行きました。

S53、札幌に転勤し東区の官舎住まい。S63年、元町団地に戸建て住宅を購入。以後の転勤は単身赴任です。H10、妻は、札幌で初めてのスクールカウンセラーとなり、以後20年間、幾多の小中学校に配属となりました。

Ⅲ アライグマ捕獲とボランティア活動期(H11~R3

道庁退職後は森林整備公社に就職し、退職後は町内会などボランティア活動に従事し、現在に至ります。

1 H11~21年 アライグマの捕獲

① 森林整備公社では、これも初めての事業である北海道および札幌市の委託による「アライグマの捕獲」業務に関わりました。

テレビアニメ「アライグマ ラスカル」で人気になった米国産のアライグマは、ペットとして大量に輸入され、平成始めに放棄されたものが約10年で野生化し、北海道の大地に根を生やし、本道の自然生態系や農業に被害を与え始めたのです。

H11年、野生化したアライグマをワナで捕獲し、生息数や効果的な捕獲方法、駆除の可能性等を検討することになりました。以後10年間の継続で、アライグマの生息環境や捕獲方法等を確立しました。その成果は、全国で増大するアライグマの「捕獲マニュアル」として活用されています。一方、10年間で捕獲された約3,000頭のアライグマは、北海道酪農大学や北大獣医学部に運び込まれ、寄生虫や病原菌の検査、胃の内容物による食性の解明、胎盤痕数から産仔数の推定など貴重な資料が大学に集積されました。 しかしアライグマは増える一方で、絶滅にはほど遠い状況でした。

② H17、母が満95才で永眠。兄弟で故郷妙了寺墓地に埋葬。S51没の父も同墓地に。

2 H21~R3年 町内会活動他

① H21年公社を退職し、居住する札幌市東区にある元町団地(1,100戸)の町内会役員を引き受け、H25年には「元町団地創設50年記念事業」を実施し、記念誌も発行しました。

H27、町内会長を辞め、以後は顧問として活動しています。

② 家庭に関して

H27-28、山梨実家の倉の解体を始める(前年冬2mの積雪で倉の屋根瓦が崩れる)。

H30、アコーデオニストの長男45歳で没。(S51.父67歳、H17.母95歳で没)

長生きすると楽しい事、苦しい事に多く出会います。苦しみは独りで耐えています。

③ 現在は、農水省野生鳥獣被害対策アドバイザーとして、最近再び被害が増大してきたアライグマの捕獲技術の指導員として各種技術相談に応じ、時にはワナ掛けに走り回っています。

おわりに 

   人生には色んな出会いがあります。

その1,昭和23年(小学生)頃、川原久仁於著「三ちゃん日記」(國民図書刊行会)という厚1.5cm程のザラ半紙印刷の本を買ってもらった。

S23刊、思い出の「三ちゃん日記」

自分では読めず、母が読んでくれた。その書き出しは、「三太君にはほしくてたまらない物が三つある。一つは空気銃で、つぎは双眼鏡だ。~それから、もう一つの物というは写眞機だ。」 当時、この貴重な本を母にせがんで、何回も何回も読んでもらった。

その2,大学生の頃、京都の友人のご先祖は花脊と言うので、ある夏、花脊の家にご家族と一緒に遊びに行ったことがある。その時、友人宅の縁者で「易」に通ずる方が私の手を取って、君は「どうしても家を継ぐはめになる」と言はれた。

それから6~70年が経過した現在、私はこのHPなどで写真機は離せないし、アライグマ捕獲で、銃ならずワナとは縁が切れない。そして、双眼鏡は、暇さえあれば豊平川への探鳥に、また、3Fの屋根に登り屋上から360度山々の眺望を楽しんでいる。まさに、ローレンツの「刷り込み理論」さながらの日々である。

その2の「相続」は、農家の次男である私が「山林や田畑を引継ぎ、空家となった生家の管理に明け暮れる」という重荷に耐えている。そして、最近では、仕方がなく、築百年の倉などをただ潰し、産業廃棄物として処理し、更地にして売り払おうと、非相続を通り越して「証拠隠滅」に向かっている。

人生80年。地球史的には瞬時でも、個々にとっては長い、忘れがたい体験の蓄積である。幼少時の偶然との出会い、その後の予測、出来事、占い事など、各人各様の想いと縁とを引きずって、その時代と共に生き、そして今日がある。 それにしても、これから5年、10年後、何が生じ、何が失われていくのだろうか。

以上です。ではまた。

コメント

  1. 山根 より:

    兎追いし・・・・・ 故郷は遠きにありて
     私は由仁町 古山
    近くなんですが・・・・
    なかなか、いけません。

  2. 樋泉実 より:

    青柳様

    傘寿おめでとうございます。
    素敵な自分史、拝読させていただきました。
    ますますのご健勝お祈りします。
    またお会いしましょう。

               樋泉 実

  3. 藤吉功 より:

     青柳正英 さま
     宗谷支庁林務課SPをされておられた頃、広報でお世話になりました藤吉と申します。本日、たまたまこのホームページに巡り会いました。
     縁あって、10年ほど前に、支笏洞爺国立公園・登別園地を所管する自然公園財団・登別支部に勤務。「北海道の森林植物図鑑(樹木編・草花編)」は、座右の書の一つです。3年前には、札幌に戻り専ら野幌森林公園をメインに自然観察、天然記念物クマゲラの保護(営巣の見守り)などに関わっています。
     北海度野鳥愛護会や北海道ボランティア・レンジャー協議会に所属するほか、北海道アウトドアガイドの資格も取得したところです。
     中でも、ボラレンの会報「エゾマツ」10周年特集号に自然保護課長としての寄稿を拝読し、とても懐かしく存じました。ご壮健のご様子、何よりです。