故郷の崩壊 → 我が生家の解体・跡地緑化

解体前の生家の風景。左のスギは妹の植栽。真中は私のトドマツ、右は古くからのビャクシン。

私の生家は山梨県で、南アルプス櫛形山(2052m)の麓の山村(現南アルプス市上市之瀬)です。家業は農林業で、明治・大正期には造り酒屋も営んでいた豪農で、屋号は「酒屋」でした。父母は、昭和40年代末まで二人で家業を守ってきました。4人の子供達が成長し実家を離れ、50年代始めに父が、平成17年に母が亡くなると家は空家となりました。

以後、次男の私が実家や田畑、山林などを管理することになりました。しかし、父母が私の帰郷を期待し昭和45年に改築した母屋を除き建物の老朽化は激しく、明治中期に建てた我が家のシンボルとも言える、「土蔵二階建ての米倉(籾4000俵収納)」は、土台から水が浸透し、壁が変形して屋根が傾きました。又、他の倉庫や居宅も屋根が抜け落ちるなど損傷が激しく、解体せざるを得ない状況になりました。

平成27(2015)年当時の我が生家の現状は次の通りです。

屋敷の広がりは約3反900坪(内宅地500 畑400)となっており、その宅地内に「主たる建物(父母の居宅)」とその付属建物10棟が建っています。それは、祖母と叔母2家族(戦後の疎開期)が住み、そのトイレなどの2棟 、他に味噌蔵、炭倉、薪倉、馬小屋など倉庫5棟、物置2棟 、トイレ・水屋(井戸)1棟 などでした。そんな中、兄弟、親類と相談を重ね、我等が故郷(生家や倉庫群)は崩壊を余儀なくされており、「故郷は要らない」と結論づけ、これら多くの建物の内、私が年何回か解体整理のための帰省に必要なものを除いて、全て解体・撤去することにしました。2015年8月吉日、近隣の神主を呼んで起工式を行いました。

次いで9月14日大型重機搬入路を確保のため、③の倉庫(味噌蔵)から解体を始めました。

味噌蔵は、味噌・醤油など醸造用の機具やビン・タル・オケなどで一杯でした。また、空き倉には、不要家具類の何十年かの蓄積が想像を絶する量でした。親戚の手助けで何とか外に運び出し、大半は軽トラで市の資源センターに搬入ました。又、燃えるものは庭で焼却しました。

次に、中庭を囲むブロック塀や灯籠・池を壊し、庭木を伐採し跡地を整地し②,①,④の順に解体し、次いで⑥平屋倉庫を解体しました。⑥の屋根裏には養蚕用機具が積まれていました。

最後に我が家最大の建物⑤の2階建て米倉、建坪270㎡を解体しました。

解体終了は2016年1月13日でした。

解体に要した費用は直接費だけで約600万円(業者が親戚の縁者ゆえ格安)でした。

解体撤去後の屋敷の状況は次の通りです。

西側の米倉⑤の跡には、土台石を積んで一段(約50cm)高くし、又、畑地の西側に生育する樹木は根元から1.5m位の地点で伐採し、壁土・瓦で埋めもどし、西隣との境である高い石垣の土台を固めるなど災害時の崩壊防止を図りました。

2016年4月から建物跡地に植林し森を創生しようと考えました。樹種は、横浜国大の宮脇先生のお奨めの郷土樹種カシ・ナラ類にきめ、先生の指導で苗造りをしている平塚市の進和学園に6月アラカシ、シラカシなど常緑樹苗40鉢を注文しました。又、4月には松本の野村種苗からクヌギ、コナラ、ミズナラ等100本を購入しました。

また、庭や空き地にはクローバーの種をまきました。 解体直後には雑草類が殆ど生えていず、新地に穴を掘るだけで植栽は出来ました。

しかし、森づくりは簡単なことでありませんでした。

 翌春、苗木の活着状況はほぼ5割で、多くが乾燥と雑草の被圧で枯れてしまいました。そこで、2017年3月にはコナラ、ミズナラ100本を再度補植し、9月には同じ樹種の大苗を植えしました。でも翌春の活着率はほぼ半分で、秋植え大苗は殆ど枯れてしまいました。
 2018年は4月にはトチノキやクルミの種を植えました。またミズナラ、コナラにハンノキを加えて100本ほど植えました。2019年にはミズナラ、ハンノキだけを同数植えました。
 年々雑草は勢いを増し、ススキにツル類、それに外来植物が加わり、2カ月も放置すれば丈3mにも及ぶオオブタクサ原となり、立ち入ることが出来ない程です。
 でも、ハンノキを主木に少しづつ森の景観を呈するようになりました。

これからも まだまだ植栽と保育は続きます。では、また・・・

刈り倒したオオブタクサ。植栽したコナラの苗は下敷きになっている。

参考 オオブタクサ(クワモドキ):キク科の一年草。1950年代に渡来したアメリカ原産の帰化植物。桑の葉に似て、高さは3mにも及ぶ外来植物の王様。被圧の害から見るとヨウシュヤマゴボウなど子供のよう。密生して生育し他の植物を包み込んで枯らしてしまう。近年の多雨と強い日差しで荒れ地に繁殖し数年前から急激に繁茂し出した。根元太さは3㎝に及ぶ(右写真は切り倒した茎。赤いリボンがナラ苗)

追記(故郷2題)

兎追いし彼の山 小鮒釣りし彼の川 夢は今も廻りて  忘れがたきふるさと

いかにいます父母 恙なしやともがき 雨に風につけても 思い出るふるさと

志を果たして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと

                               高野辰之

故郷は遠きにありて思ふもの そして悲しく歌ふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや 

ひとり都の夕暮れに ふるさと思ひ涙ぐむ そのこころもて 遠き都にかえらばや 遠き都にかえらばや                       室生犀星

コメント

  1. 山根 より:

    私が5歳から15歳まですごした小学校跡地はまっさらの運動場となっており、廃校です。
    時たま思い出します。懐かしくもあり苦い思いでもあります。